1853年(嘉永6年)尊皇攘夷で揺れる幕末の動乱期、備中西江原界隈でも若者の心が揺れ、風俗が乱れ、夢を失いかけていました。そこで、一橋家の代官友山勝治らが中心となって有志が立ち上がり、この地域に寺子屋以上の教育を実現するために興したのが興譲館の始まりです。
初代館長には、芳井村で私塾「桜渓塾」の塾長として名をあげていた阪谷朗廬先生を迎え、資金繰りに奔走しながらも一郷校「郡中教諭所」としてスタート。後に江戸から長崎に向かう途中に立ち寄った古賀茶渓(旧師の子)が「興譲館」の揮毫を残したことから、校名を「興譲館」としました。
開学からわずか10年、山陽道を行き来する諸子たちが次々にこの門を叩き、中国、四国、九州の教育の拠点として「天下三館」(水戸 弘道館 萩 明倫館 岡山 興譲館)と謳われるようになり、阪谷朗廬先生も「海内の儒宗」としてその名を天下に轟かせました。
それ以来、約160年の間、興譲館は地域の教育を牽引してきたのです。明治の学制発布により、多くの藩校や郷校は公立学校への転身を図りましたが、興譲館は半官半民の私学としてその歴史を刻み続け、現在、我が国の高校において、私学のままで校名変更していないという条件を付けると、我が国で最も歴史ある高校だと聞き伝えられています。